20201027|耳のおはなし

最近、耳がうるさいんです。

この示唆的な言葉から始まる小さな冊子は、福岡県那珂川市のフリーペーパーZINE「cototoba」です。

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先日福岡でお会いした、お友達の坂口麻衣子さんや山内建佑くん達が制作されていて、10月には秋号が発刊されたようです。プロジェクト「こととば那珂川」については、こちら↓

https://www.facebook.com/656018594532058/

耳がうるさいことにまつわる文章から始まり、それに対して色々な方が「お悩み相談」的に文章を綴ったり、コラムを寄稿したり、オススメのCDを紹介したりするといった内容。

特に今回は、音楽専門のフリーペーパーでも無いのに、音にまつわる重要なテーマが身近な距離感のことばで表現され、素敵な挿絵と丁寧な想いで作られているところが好きな所です○

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初めは、「耳がうるさい = 耳の飽和感」のことかな?と思いましたが、読み進めていくうちに、どうやらこれは、その先にあるものの話をしているなと感じました。それは、僕にとっても、いま1番興味のある記述したいもののひとつです。

僕自身は日頃から演奏や制作で音をたくさん聴いているせいか、音を長時間聴き続ける体力はある方です。それでも、テレビの音や動画の音を流し「ながら」聴くことはかなり苦手で、ほとんどが静かな音の中で暮らしています。

しかし一歩外に出れば、自分の意思に関わらず、たくさんの音に囲まれることになります。自分にとって辛いと感じるほどの音の量を浴びてしまう時なんかには、身体に通す音と通さない音を選択したりするのですが、限界はあります。

特に最近は、SNSやオンラインでのやりとりが急激に増えたことに加えて、必要以上に大きい音に慣れている人や、小さい音を長時間聴くことができない人(何かが鳴っていないと安心できない人)に出会うこともかなり増えました。

その結果、「今日は何も聴きたくない〜」と言った感情や「耳がずっと鳴ってる気がする」ような感覚に陥ったりするのは、多くの現代人が感じたことがあるのではないでしょうか?

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耳というのは、ヒトにとって、お馴染みな器官です。耳を使って何をするかと言うと、音で距離や方向を判断したり、嬉しい・怒っているのような感情を読み取ったり、場合によっては次に鳴る音の予感や命の危険までも察することができます。

つまり、「きく」というアクションです。「きく」には、聴く、聞く、訊く、など、様々なものがあります。

何を「きく」のか。どんな音を身体に透すのか。

これは、特に今の時代の音楽家にとって、かなりの難問になってしまいました。もし「当たり障りの無い」「汚れの無いもの」だけをきいて作られた音楽があったとしたら、文字通り「何も残らない」ことになるでしょう。ここに、音楽家としてのチャレンジ、戒めがあります。

なにも、楽器の音だけが「音楽」ではありません。例えば、本を読むときに、絵を見るときに、音がなくとも「音を感じられるもの」に出逢う機会があったりします。

それが音楽を直接聴かなくても感じられる「音楽」、自分の身体の中に流れている「音楽」です。それらは"音が身体を透る"とはどういうことかを教えてくれます。

出来るならば、みんなが気付きやすい大きな音やあたりの良い声だけでなく、聴き逃してしまいそうなほど小さな音や少々捻じ曲がっていたとしても意志のある声があれば、是非過信をせずに、気に留めて拾ってみて下さい。

このご時世に足りないのは、そういった機微への配慮ですから。そして、その先に辿り着いたときには、きっとこう悩むでしょう。

最近、耳が静かなんです。

新しい問いの始まりです。

(個人的な余談:いわゆる爆音と呼ばれる音楽シーンやノイズの世界の中でも同じ話が想像されるので、表紙絵の中にある「I am tired of noise.」という訳は、個人的には「I am tired of the sound.」の方がしっくりきたりします。)