20200919|越境者としてのこころえ

今年の冬12月のはじめに、延岡出身の絵を描く人 堀川智美さんとの企画を神戸にて予定しています。この企画をありきたりな言葉で表現するとすれば、「今までの集大成」であったり「ジャンルを越えた作品づくり」であったりするかも知れないですが、そんなものは建前。本音は〈弱さを確かめる〉企画です。

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今日1日の大半はその企画の打ち合わせをして過ごしました。打ち合わせのスタイルは人それぞれで、大概は神戸以外になることが多いのですが、今日は珍しく神戸。しかも歩いていける距離なのが新鮮。その時間に何をしているかと言うと、カフェインかアルコールを摂取しながら大事な内容だけやり取りしてサクッと終わることもあれば、5%くらい真剣な話で95%くらい(無駄ではない)無駄話といった具合もあり、これもまた人それぞれです。

そういえばここ数日は、「勇気」と「臆病」の話を読んでいました。「勇気」があるから強いのか、「臆病」だから弱いのか。

例えば、絵と音のように、違う形態(と思われている)アートどうしの企画は、実は交わることの少ない平行線になりがちです。それを打破するには、それぞれの境界線を越える「勇気」と真逆の「臆病」さ、そしてそれを扱う〈こころえ〉が必要になってきます。

特に自分発信の企画をしたりアートの壁を越えようとするアーティストたちの多くに課せられるのは、「水の無いところに水を引く」仕事です。そうなると当然、今までには無いことだから、その枠や境界線を越えていく「勇気」が必要となります。いや寧ろ話は逆で、「勇気」があるから「水の無いところに水を引く」のかもしれません。

しかし、意地悪に言い換えてみると、「勇気」が無い人は「水の無いところに水を引けない」のだと思えてきます。すると「勇気」を持つことは強くて、「臆病」であることは弱いのかという問いに行き着きます。

僕はここで改めて「臆病」であることとは何なのか、考えたいと思っています。つまり、それは決して弱いのではなく、「勇気」を持つ人には見えない世界と「臆病」であることでしか齎せない何かがあると確かめたいのです。