聴く力と音楽の監獄からの脱出

昨日とある打ち合わせ中に、音楽家に語彙力は必要ですか?と質問が矢のように飛んできました。よく音楽家に言葉は必要ない、何も考える必要はない、とお決まりのフレーズが聴こえてきそうですが、言葉は磨くものです。言葉を磨けば音も磨かれる。

音を聴く力も同じ。聴く力が育たなければ、音を表現する力も育たない。実は今の時代の音楽家にとって重要なのは、この聴く力を鍛えることではないかと思っています。

先日ピアノソロでお世話になったguli guliさんのところに遊びに行ってたら、小学6年生の女の子とそのお母さんがいらしてて、彼女はピアノを習っているけれど、どうやら同じ教室の子と比べて「変わって」いるらしい。

例えばコンクールの話。直前ともなれば、先生から「ここはこう弾きなさい」と言った楽譜の「弾き方」の確認を何回もしているのが一般的には普通(なぜそれが普通?)なようですが、彼女は「1回自由に弾いていいですか?」と提案。先生は困っているにも関わらずスッキリしたようだったという話を聞きました。

もう少し詳しく話を聞いてみると、バッハが嫌いでドビュッシー以降の音楽に興味があるよう。

じゃあ「自分が好きに弾ける曲を聴きたいな〜」と言ったら、恥ずかしがりながらも右手だけでポロポロと弾いてくれました。それはボカロの曲やYou Tubeの曲を「耳コピ」したやつで、さすがYou Tube世代!と思う一方で、KeyはBとF#mだったのがちょっと衝撃。難しいのに。左手はまだ「コード」を知らないから弾けないだけで、それこそ豊かな音楽だったー。

楽譜から離れて弾ける、耳コピができるだけで自由を感じるなんて、これこそ才能です。彼女は耳がいい音楽家になれる。クラシックの先生に「ボカロもいいけど、まずはテクニックね」という言葉をかけられているようなのですが、どんなにこの才能に気付いていないか。僕は早く彼女のこの才能を伸ばすべきだと思う。本人も自由に外に出たがっているよ。

言葉を選ばずに言えば(クラシック音楽を否定しているわけではないです)、クラシック音楽を使った日本のピアノ教育の多くはまるで「監獄」のようです。音楽を「再現」することに関わりすぎて、ひとりひとりの中にある声を「表現」することを拾ってあげられないのは、大きな文化の損失です。逆に、この監獄から「脱出」できれば、今までの時代には無かった多種多様な音楽に触れて楽しむことができる。

多分彼女はボカロやYOUTUBEを通して脱出口を見つけているのかもしれない。なら、もっと広い音楽世界に触れたらどうなるだろう?とつい思ってしまいます。その時一緒に話を聴いていたguli guliの中川さんも、こういう人材の芽がどんどん育って行く社会になって欲しいな〜と感じていらっしゃったようですし、これこそが僕らの仕事だなと強く思っています。